2013年10月29日火曜日

朝永振一郎も「慣性の法則」に気付き給ふ

朝永振一郎著「量子力学と私」(岩波文庫1997年)が出版されたとき、理学部の学生/大学院生の間にざわめきが起きたのを記憶している。「朝永の日記読んだか?」「ああ、読んだよ!」という会話が大学の講義室や研究室のあちこちで交わされた。この文庫に収録されている「滞独日記」の章のことだ。

この日記には、ハイゼンベルグ(ドイツ)の下で研究を行う、朝永さんの日常が赤裸裸に綴られていて、凡人の我々には本当にありがたい本なのである。これを出版する事を了承した御家族の英断には感謝申し上げたい。それは、この日記を読むと、ノーベル賞を受賞した人でも、これほど迷ったり、さぼったり、計算に疲れたり、優秀な友人(湯川秀樹のこと)をひがんだり...まったく一般人の我々と変わらないじゃないか!という驚き、そして「これならオレだって同じだ。いつかはノーベル賞とれるかも」という妙な希望を我々に持たせてくれるからだ。

久しぶりにこの本を読み返してみたが、どうも前半の部分の印象が随分薄くなっていたことを痛感した。読み返してみると、これも非常におもしろい!特に、「原子核物理における日英の交流」の章にある一節が目に留まった。引用してみよう。
....大学という機関は保守的であるのが常であって、急激な変化に対しては大きな慣性を示します。とくに有力な大学の多くが国立であり....文部省とか大蔵省とかの官僚機構のもつ大きな慣性によって、大学の慣性はさらに倍増されがちなのです。この大きな慣性のために、...科学の進歩があまりにも急激であるとき、大学がそれに反応し得ないことが私の国(日本)では起こりがちなのであります....
以前、慣性の法則について書いた事があった。朝永氏も似たような感想をもったのだと知って、またもや「妙な」親近感が湧いたのだった。

2013年10月28日月曜日

双子山へ

秋晴れの陽の下、大河原峠から双子山へ登った。
途中ふりさけ見れば、蓼科山と横岳の間から南アルプスが雲海の上に浮かんで見えた。



紅葉はすっかり終わり、眼下に広がる山麓へ下りてしまっている。とはいえ、白樺の幹が白く目立ち、針葉樹の緑がパッチワークのようになっている。紅葉はさらに下の里の方にまで下りてしまっているようだ。手前の落葉松の黄色は、紅葉の終わりを告げている。高山の秋は既に晩秋に入ったのだ。
大河原峠から眼下を望む
双子山の山頂は大きく景色が広がっていて、晴れていれば爽快な気分が味わえる。遠くに見えるのは秩父や群馬との県境の山々だ。これだけの景色が見えるということは、実は、ここは放射能プルームが信州に突入したとき最初に引っかかる場所に相当する可能性があるということだ。今回は調査道具を持って来なかったが、再訪してこの峰はよく調査する必要があると感じた。
双子山の山頂

2013年10月27日日曜日

秋の終わり

おそらく今年最後であろう台風が去っていった。大島の土砂崩れに追い打ちがかからなかったのは幸いだったと思う。ただ、あちこちで被害を残していったらしいが。

一晩明けて秋晴となった。晩秋を感じるのは気温の低下のせいだろうか?紅葉も随分里まで下りてきた。

中央道を下る。まずは、甲府にて富士を眺める。東京からの丹沢越しでは雲に隠れて見えなかったのに、さすがにここまでくると雲は退いてくれるようだ。それでも、御坂山地越しの富士は久しぶりのことではないだろうか。甲府にはまだ紅葉は来てないようだ。お昼に、山梨育ちのワインビーフの焼き肉を、山梨米に敷き詰めた焼き肉重を食す。美味なり!
甲府から見た富士。
信州に入る。紅葉は里まで下りてきていた。IC周辺は鮮やかな赤、オレンジ、黄色の紅葉で彩られていて、まったくの別世界に迷い込んだようだ。牧場近くのカフェはお休みで、少し離れた所にある別のコーヒー店で一服した。ストーブの火が心地よかった。
八ヶ岳山麓の紅葉
山を下ると、金星が山の上に輝いていた。もうすぐ東方最大離角を迎えるため、かなり高度は高くなってきている。
金星と夕焼け
この日の夜は、海王星、冥王星の観測にチャレンジした。水瓶座と、うお座をマスターした。これからひと月毎に観測を続けていけば、最果ての氷の惑星の逆行が観測できるはずだ。

それから、CD-1の練習のために、M31(アンドロメダ銀河)を撮ってみた。今回はピント合わせにこだわってみた。夜露がキツかったので60秒露光で2枚撮ったところで断念したのは残念。






2013年10月20日日曜日

山本太郎氏

東京新聞の記事。(あるいはこちら。)
先の参議院選挙で国会議員に当選した山本太郎氏いわく「オリンピックを開催し目先の享楽(金?)にふけるよりも、原発事故の収束や震災復興などで苦しむ人々を直接的に救済することに日本は取り組むべき」と。

国会議員は国民の代表なのだから、投票してくれた人々の声を国会で代弁する義務がある。しかし、与党についた大抵の議員は掌を返して人々の声を裏切るものだ(TPP、沖縄、除染などなど)。それに比べれば、山本氏は国会議員としての仕事をキチンとやってくれていると思う。東京に住む少なからぬ人々が感じていることを、ちゃんと声に出してくれたことを評価したい。

2013年10月6日日曜日

いるか座の新星は去りにけり

いるか座の観測を久しぶりにやってみた。同じ条件で撮影してみたら...もう消えてしまっていた。新星の減光は意外に早いことが判った。超新星ならずっと見えるのに。



新星の観測は以上で終了。

紅葉の蓼科

まさかとは思ったが、蓼科の上の方は紅葉が盛りとなっていた...ナナカマドの赤と白樺の黄色が素晴らしい。
所々に、先日の台風18号の爪痕が残っていた。霧が濃く巻いていて、道を踏み外しそうになった。落ちたら...多分助からないだろう。

下界に下りると蒸し暑かった...台風のせいらしい。

2013年10月2日水曜日

ヤマトの諸君....

先週、NHK教育で放映された番組「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~」を観た。

太平洋戦争が終わった後、アメリカとソ連(現在のロシア)は核兵器の開発競争を繰り広げた。如何に威力のある核兵器をもっているかを見せしめることで、相手を威嚇しコントロールするためだ。

アメリカはニューメキシコの砂漠で最初の核爆弾の爆発実験を行い、その後はネバダ州などの砂漠地帯で実験を繰り返していたが、アメリカ本土の放射能汚染を恐れ、日本との戦争で手に入れた実質上の植民地、太平洋の島々に核実験の場所を移した。ビキニ環礁と呼ばれる珊瑚礁では水爆実験を23回繰り返した。

NHKのETV特集より。

南太平洋のこの海域とその周辺は日本のマグロ漁場となっていて、多くの日本の漁船が実験中にビキニ環礁の海域にいた。アメリカ軍は爆弾の威力を低く見積もり過ぎていたため、この海域を立ち入り禁止にしていなかった。

米軍の開発した水爆は原子爆弾を起爆装置として利用する「汚い水爆」であり、爆発と共に飛び散る「死の灰」は致死量を遥かに上回る放射能を帯びていた。死の灰を浴びた第五福竜丸の船員たちは急性の放射性障害にかかってバタバタと死んでいった。また、日本に水揚げされるマグロの放射能汚染は想像を絶するひどさであることが判明した。魚を主たる食料とする日本人にとって、太平洋の放射能汚染は死活問題だった。

アメリカ政府は「放射能は怖くない。薄まるので問題はない」と(どこかの電力会社と同じ様に)日本人に説明した。にも関わらず、日本から輸入するマグロの缶詰には厳しい汚染検査を要求し、放射能が検出されないマグロだけを特別に選ばせ、それを米国向け缶詰用とさせた。日本政府は言われるがままであった。そして、(米国の基準では汚染された)残りのマグロを日本人に消費させた。「許容範囲以下であるから安心」と説明したが、日本人だけに適用された「安全な」許容範囲であった。

日本政府内でも意見の対立はあったようで、このような米国の圧力に対抗しようとした部署もあった。水産庁が南太平洋海域の放射能汚染調査を実施することを決定したのである。案の定、諸々の圧力がかかり、調査のための予算は削りに削りとられた。その結果、ボロボロの練習船を改造した「俊鶻丸」が調査船に選ばれることとなった。

ビキニ環礁にたどり着くまでに、米軍の潜水艦に沈められる恐れがあった。いわゆる「どさくさ攻撃」による証拠隠滅だ。俊鶻丸の使命は、米軍の攻撃を避けてビキニ環礁まで到達し、その海域を含む周辺の海の放射能汚染データを持ち帰ることであった。

日本の命運を懸け、東京から4600キロ彼方のビキニ環礁目指して、
たった一隻で太平洋を進む俊鶻丸。NHKのETV特集より。
乗組員に選ばれたのは、30から40代の若い科学者だった。幅広い分野から選考され、生物班、気象班、海水大気班、海洋班、環境班、食料衛生班といったグループが組織された。また、物理から放射能測定の専門家、岡野真治博士が選ばれた。

俊鶻丸に乗り組んだ科学者たち
(NHKのETV特集より)

日本人の健康、そして日本の国の尊厳とその未来を懸けて、科学調査船「俊鶻丸」は東京港を出航した。米軍の攻撃や強い放射能被曝など、数多の困難が待ち受ける命懸けの航海であった。

「必ずここへ帰ってくると、手を振る人に笑顔で応え...」

出航する俊鶻丸(NHKのETV特集より)

まさか本当にそういう事が日本の歴史で起こっていたとは知らず、驚くばかりだ。


どさくさに紛れて...

1990年代の前半、ユーゴスラビアは分裂し、セルビアやコソボなどの地域が独立戦争を起こした。バルカン半島は昔から異なる民族が混在し争いが絶えなかったが、このときもキリスト教系とイスラム教系が激しく対立した。憎悪による市民の大量虐殺などが起き人道的に問題視された。1999年国連そしてNATOが独立戦争に介入し大規模な空爆を行った。このとき、アメリカ空軍を主力とする爆撃部隊は、なぜかベオグラードの中国大使館を空爆した(中国人3人が犠牲となった)。米軍は「CIAのもっていた地図が古かった」と説明したが、この時期米中は台湾の帰属を巡って対立、台湾海峡を挟んで米中の空母が睨み合う緊迫した事態にあったことを知るものは、米軍の説明に疑いをもった。英紙の中には「どさくさに紛れた仕返しの空爆ではないか」と分析したところもあった。

1945年、アメリカ軍は広島(8月6日)と長崎(8月9日)に原子爆弾を投下した。これは人類史上初めての対人殺傷目的の核兵器使用だった。戦争終結を早め米兵の命を救うための必要不可欠な作戦だったと米政府は今でもそう説明しているが、そもそも原子爆弾は日本戦に使用する目的で開発された兵器ではない。当時ハイゼンベルグを筆頭とするドイツの優秀な科学者がナチスに協力し、原子爆弾の開発に着手したのではないかという噂があった。戦況が不利になりつつあったナチスが一発逆転を狙って、原子爆弾を用い米英に壊滅的な先制攻撃を仕掛けるのを恐れたアインシュタインらのユダヤ人系科学者(ナチスの迫害を逃れアメリカに亡命)は、原子爆弾の開発を米国大統領に進言した。ナチスが原子核の火を手に入れる前に、逆に原子爆弾を使ってナチスを打倒するためだ。しかし、ナチスは原爆をつくるどころか、アメリカが原爆を完成させる前に降伏してしまった。近年、機密文書が公開されるにつれ、広島と長崎への原爆投下は不要で、その本当の意義はその後の核戦争を睨んだ「人体実験」だったことが明らかとなりつつある。しかも、アメリカ軍は本国においても、自国民の患者にプルトニウムを注射するなど、人体実験を繰り替えし行っていた事が明らかとなっている。「戦争のどさくさに紛れた人体実験」、それが日本に投下された原爆の本当の意味だと考える人は多い。


2013年9月、大型の台風18号は愛知の豊橋に上陸。東海地方を東進し、北関東から東北南部を通過。16日には仙台湾へと抜けた。福島第一原発の福島県でも大雨が振ったが、原発近くの地域での降水量はそれほどでもなかった(小名浜は48時間の降水量が65ミリ)。にもかかわらず、東京電力は、原子炉から溢れ出る大量の「雨水」を海へ放出した。この報道を聞いた人々の中には「どさくさに紛れた意図的な汚染水放出ではないか?」という疑念を持った人もいた。
台風18号(2013年9月)が福島にもたらした降水量。
このとき、台風は仙台湾に抜けてしまっている。
FNNの報道より引用。