2011年7月4日月曜日

原発は停めなくてはならない:大江健三郎氏らの呼びかけ

大江健三郎氏を中心に、脱原発そして新しい再生可能エネルギーへの進歩を目指すための、活動が行われている。(内橋克人氏坂本龍一氏らも参加している。)最初の活動として、9月19日の明治公園での集会がある。また、二つ目の活動として、1000万人を目指した署名活動を行っている。

一方、経済産業省の「原発安全宣言」や、九州電力の玄海原発の最稼働など、国の中枢にある政治、官僚、そして大企業は「原発再開」の方向で動き出した。

国民の反応は、震災直後と4ヶ月近く立った現在では、随分変わって来た。直後の反応はどちらかというと政府官僚大企業よりの意見を持っていたのだが、最近は明確な脱原発に傾いている。この4ヶ月間に、東電と政府、そして役人がやってきたこと、言ってきたことが、いい加減だったっり、嘘だったり、適当だったりと、国民は様々な問題を見聞きし体験してきただけに、この反応は当然だと思う。

少数の大企業、そして一握りの官僚や政治家の私利私欲のために、国民とその財産を犠牲にしたのが、先の大戦だ。これに関しては、誰も否定できないと思う。今回の原発の問題をよくみると、戦争に国民を引きずり込んだときとよく似ている。

太平洋戦争の場合もエネルギー問題が始まりだった。石油だ。欧米に石油資源や鉱山資源をブロックされた財閥や大企業が、政府に対して戦争を呼びかけ、権益の確保に動いた。そして、ただそれだけのために、国民の命と財産が無駄に費やされた。「国益のため」というスローガンだったが、それは「(ていうか、実は私たち金持ちのため)」というサブタイトルがついていて、それは発音されなかった。今回の東電は、よーくそのあたりを勉強しているらしく、幹部は、先の軍部や財閥よろしく、「電気が足りない足りない」と危機をあおり、国民(主に福島の子供たち)の命と税金(主に東電管内の電気利用者の)を、貪り食おうとしている。

東電のこのやり方が今回うまくいくとすれば、それは日本はまた戦争に巻き込まれても、国民はそれを停める力を持たない、ということを意味する。政治家や役人の上層部が「エネルギー確保のためにはしかたない」とか「国民のためだ」とか言い出して、仮に戦争に突入しようとしたら、それを停める力を国民は持っていないことになる。脱原発は戦争よりはずっと停めやすい問題だろう。にもかかわらず、それに失敗したら、戦争回避は日本人には到底無理な話ということになってしまう。未来の日本のためにも、今回の大江健三郎氏らの活動はとても重要で、歴史に残る集会にしなくてはならない。

そして、私たちひとりひとりがまず出来ることとして、活動すべきは署名集めだと思う。軍部、あるいはアメリカの占領軍が一番怖がるのが「大衆」だ。御殿場の米軍基地の問題や安保問題のときは、主婦たちの団結をアメリカは一番恐れたという。先鋭化した一部の学生や少数の知識人に対しては、対策法を星の数ほど持ち合わせている彼らも、一般人の塊には対処できないことをよく知っている。家康も農民の一揆が一番怖かった。だから、散り散りばらばらにしようと、あの手この手を打った。(「百姓は生かさず殺さず」、や「五人組の連帯責任」など、まだ日本人の心に巣くっているものすらある...)現行の法律でも集会やデモには政府の許可が必要なのは、彼らが一番恐れるのは、まさにそれだからだ。

脱原発を望むものは、大江氏の下に団結し、一部の利権を握る者たちと対峙し、彼らの野望を止めねばならない。これに成功するかしないかは、次に起こるべき、もっと大きな悲劇を避けることができるかできないかを見定める、大きな試金石となるだろう。

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